責任の所在
新銀行東京に400億円追加出資が決まりそうだ。返ってくる見込みがほとんどない(ひいき目に言っても、返ってくる可能性が非常に薄い)出資に税金が使われる。最初の出資分と合わせれば1400億円というから、都民一人あたりで1万1000円ぐらいの負担である。もちろん今は株券という形になっているが、その株券が紙くず同然になる日もそう遠くはないだろう。
追加出資に多くの都民は果たして納得しているのだろうか。寡聞にして賛成論を聞いたことがない。しかも今回の騒動に関して、いちばん気になるのは石原都知事が潔くないことである。もともと石原さんが圧倒的に人気を誇ったのは、政府がなかなか規制しないディーゼル車のPM(粒子状物質)排出基準を強行したり、政府に対してずけずけものを言ったり、大銀行に対して外形標準課税という奇策を用いて税金を召し上げたりと、タカ派ではあっても「庶民の味方」的なポーズを取ってきたからである。流入する外国人労働者を「敵視」するのは、ヨーロッパの極右と呼ばれる政治家に共通する。
しかし石原銀行とも呼ばれるこの新銀行東京に関しては、圧倒的に石原都知事に分が悪い。「最初の経営陣がひどかった」、都の調査報告書はこの一点張りである。ここまで一部の人間に責任を押しつける報告書(概要しか公表されていない)は、品格に欠けるのはもちろん、そもそもまじめに調査したのかさえ疑わせるものだ。
通常、どんな組織でも問題が起きた場合、その責任を個人だけに帰することはできない。たとえ最高責任者が暴走した場合でも、なぜ暴走できたのか、ガバナンスはどうなっていたのか、組織として問題はなかったのか、などなど「システム検証」が行われなければならない。
たとえば、この調査報告書では「経営陣が情報を上げなかったから取締役会は機能を果たすことができなかった」のだという。しかも「規程により」代表取締役に権限が集中したのだと説明している。もしそうならば、なぜそういう規程にしたのか、その経緯を説明する必要があるだろう。それに外部取締役は日常業務がわからないから、監督すると言っても限界があるのだという。
「語るに落ちる」とはこういうことを言う。取締役会は執行役に結果責任を問うのであって、日常的な業務の内容を監査するわけではあるまい(それは通常、監査役が担うものである)。そして結果が伴っていないことは一目瞭然だった。想定された以上に業績が悪かったからだ。当然、執行役員に説明を求めなければならない。その結果、納得のいかない説明しか得られなければ、承認印を押すべきではないのである。それがガバナンスということである。印を押してしまった以上、取締役が責任を逃れられるものではない。
この調査報告書を作成した調査委員会委員長の津島隆一氏は、前東京都港湾局長であり、この新銀行東京を設立するときには設立本部長を務めて、業務運営指針であるマスタープラン作成にも携わったという(そして今は代表執行役だ)。本当に問題点を摘出したければ、設立に携わった人間をトップにして調査委員会をつくったりはしないだろう。当初からボタンを掛け違えていたかもしれないからである。調査が公明正大であることを保証するためには、当然のことながら独立した第三者委員会を設置するのが筋である。
その津島報告書が、前経営陣にすべての責任を押しつけ、都知事や自分たちの責任にまったく言及しないという結論を出したために、報告書としての客観性はまったく失われてしまった。石原都知事の口調を真似すれば、「こんな報告書を信じるのは児戯の類」である。まして自分が発案して推進した銀行が都民の税金を食いつぶしたことについて、経営陣の責任はあるとしても最高責任者としての責任は免れまい。ぜいたくざんまいの海外視察をしたとか、身内が絡んでいるところに仕事を発注したとかいう程度の話ではないのである。
400億円追加出資に賛成する意向の公明党は、再建を確約するとか都が監督を強化するよう求めるのだそうだ。何か言わないと格好がつかないということなのだろうが、再建を確約する意味があるのだろうか。それに、もともと監督能力がなかったからこうなったのに、監督を強化せよというのは論理矛盾である。通常の企業経営者なら事業再建に失敗すればお払い箱になるが、津島氏の場合は失敗しても都庁に戻るだけだろう。しかも最大の株主は東京都、つまり最もうるさくない株主である。なぜなら、その株主が出資しているのは自分たちの金ではない。都民の税金にすぎないからだ。
いまこの銀行を清算すれば都としては1000億円の負担になるのだそうだ。だから400億円は「安あがり」だと都は主張する。事業を継続できれば安くつくかもしれないが、もし失敗すればいま1000億円で済むものが、もっと膨れあがるかもしれない。そのときには、いったい誰がどのように責任を取るのだろうか。
常日頃、意気地がないとか潔くないとか、男の美学を言いたがる石原都知事。この問題に関しては、どうも歯切れが悪い。答弁を聞いていても開き直る場面も多いような気がする。
こういうときに男の美学を発揮してこそ、男が上がるというものではありませんか。男が上がらなければ、障子を突き破ることもできませんよ、石原知事。
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