「変えない」から「買えない」

FRB(米連邦準備委員会)のアラン・グリーンスパン前議長が書いた回想録、『波乱の時代』。友人の日銀マンが「生々しくて非常に面白い」と勧めてくれたので、読んでみた。日経新聞の「私の履歴書」でさわりを読んだ方も多いだろうと想像する。

あまりこの手の本は読まない僕にとっても、確かに面白い。景気の読み方、金融政策の決定の仕方、政治家やホワイトハウス高官とのやり取りなど、「なるほど、そういうことがあったのか」と思わせる場面が数多くある。自分に都合よく書きすぎているかもしれないと思うようなところはあるが、だいたい自伝の類はそういうものだ(だからあまり読まない)から、そこは割り引けばよい。

中央銀行としてのFRBのいちばん大きな役割は、インフレを防ぐことである。そして景気のコントロールだ。冷えすぎれば金利を下げるし、熱くなりすぎれば金利を上げる。レーガン政権の時代、アメリカは財政赤字がかさんでくる。1987年、ポール・ボルカーの後任としてFRB議長に就任したグリーンスパンは、財政規律を強く求めた。財政赤字が積み重なると長期金利の上昇を招き、それが景気の足を引っ張るからである。

そこで日本のことがふと気になる。デフレという悪性の病気にかかったとはいえ、先進国最悪の財政赤字を抱えながら日本の金利はなぜこうも安いのか。アメリカの財政赤字をファイナンスしているのは、国内の投資家以外に海外の政府や投資家がいる(だいたい4割前後だと思う)。日本の場合は外国投資家の持ち分がアメリカに比べると極端に少ない。だいたい3~6%ぐらいではないだろうか。結局それ以外は、国内の金融機関や機関投資家、個人投資家、かつての郵貯や簡保が国債の保有者ということになる。そしてここからが問題なのだが、金利が安くてもこうした投資家は黙々と国債を買う。

安い金利でも国にカネを貸すということは、将来にわたってインフレも起こらず、国が借金の返済を先延ばしにしたり、棒引きしたりすることはないという前提があるからだろう。しかし、である。だいたいGDP(国内総生産)500兆円の1.6倍を越える借金がある国をどうしてそんなに「信用」できるのかがよくわからない。あまりにも国を信用する金融機関や機関投資家が多いものだから、国が「モラルハザード」を起こしているのではないかとも思いたくなる。国債という有価証券報告書を印刷しさえすれば、カネはいくらでも個人の懐から国の懐に転がりこんでくる、というわけだ。

本来、これほど国が借金をするまでには、金融市場(預金者から預かった資金を運用する場でもある)から政府に対して警告が出ていていいはずだと思う。それが民間の自然な経営感覚というものではないだろうか。最近はやりの言葉でいえば、そんな借金大国が持続可能なはずがないのである。それがなかったのだとすれば、日本には市場の論理が通用しない仕掛けがあるのではないだろうか。そんなことを疑ってみたくなる。

国土交通省が空港会社に対する外資の持ち株制限を3分の1に制限するという法案を提出しようとしたら、渡辺金融担当相をはじめ、閣内から反対論が噴出した。日本に外国資本を誘致しようとしているときに、それと反対のことを打ち出すのはいかがなものか、というのが反対の論理である。それはそれで納得できるが、空港会社や通信会社、放送会社など、国のインフラにあたる部分について外資の持ち株を制限するというのは珍しくない。アメリカほど自由な国でも、中国が投資するなどというと業種によっては神経をとがらせて議会が反対したりする(実際、中国企業による米石油会社の買収を阻止した)。日本企業がアメリカの光ケーブルの会社を買収しようとしたときも、安全保障を理由につぶされたケースがあったという記憶がある。

空港会社のような会社は外資規制も仕方がないかもしれないが、スティールパートナーズがブルドックソースの買収を持ちかけたケースはどうだろう。東京高裁までもがスティールパートナーズを「乱用的買収者」と断じて、会社側の買収防衛策を支持した。現経営陣と買収側とでどちらが会社の価値を高め、株主に利益をもたらすことができるか、それはやってみなければわからないのに、いとも簡単に門前払いを食わせたという印象が強い。この一件以来、外国の投資家にとって、日本は「買えない」国になってしまったのではないかと思いたくなる。

僕の取材経験でもよく「外資系」「民族系」という言葉を聞いた。いまから30年ほどまえは「外資はできるだけ排除、民族系がんばれと」いうのが多くの日本人のメンタリティだったように思う。日本にコーポレートレイダーとよばれた会社乗っ取り屋が上陸したこともあったが、最近のファンドは会社を買収して切り売りして儲けるというものばかりではない。企業を再生し、あるいはより価値を高めるということを目的に、長期にわたってコミットするファンドも数多くある。それをいわゆる乗っ取り屋と同列視するのはあまりにも世間知らずなのではないだろうか。

外国の投資家にとって日本が魅力のない投資先になったとき、果たして日本の投資家はそれでも日本に投資しつづけるのだろうか。日本の投資家が日本の国債に見切りをつけたら、それこそ国は高金利でしか資金を調達できず、そのあおりで日本の企業や国民は資金調達に難渋するに違いない。「改革」が必ずしもいいこととは限らないが「変えない」「変わらない」ことは確実に沈没の道である。IT時代で変化のスピードがこれだけ速いときに、変わらなければ流れに取り残されるのは明白だし、すでに日本は取り残されつつある。

いっそ取り残されてもいいから、古き良き日本として、伝統を守り、観光立国で生きるというところまで腹をくくるのなら、それはそれで国として生き残る術はあるのかもしれないが。

(Copyrights 2008 Masayoshi Fujita 無断転訳載を禁じます)

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