失言二題

鳩山法務大臣の見識のなさは最早誰の目にも明らかである。「友人の友人がアルカイダ」という発言とか、法務大臣が判を押さなくても死刑が「自動的に」執行されるような制度にしたらいいとか、自分の立場や制度の成り立ちにあまりにも無頓着というより無知な発言を聞くと、およそ大臣の任にあらず、と見る他ない。

その鳩山法相がまた無知ぶりをさらけ出した。冤罪事件に絡んで、「裁判で無罪になったものは冤罪と呼ばない」と発言したのである。その例としてあげられたのは、鹿児島県志布志の選挙違反事件で警察が逮捕し、検察が13人を起訴した事件だ。鹿児島地方裁判所は自白の信用性に疑問符をつけ、被告12人全員(1人は公判中に病死した)に無罪を言い渡した。これに対し、検察は控訴せず、無罪が確定している。

鳩山大臣の言わんとしたところは、真犯人が現れるなどして(富山の婦女暴行事件のケース)、完全に無実であることが立証された場合が「冤罪」だというもの。つまり無罪になってもそれは警察・検察が十分な立証ができなかったということであって、冤罪とは限らない。鳩山さんはこう言いたかったらしい。すなわち裁判所で刑事被告人が無罪となっても、その被告が本当に犯人ではないと立証されたわけではない、ということだ。

人権擁護局という人権を守る部局があるお役所のトップとは思えない発言である。そもそも権力をもつ機関というものは、その行使の仕方に厳重な制限が設けられている。裁判所の許可なしに家宅捜索することもできないし、ごく現行犯などの場合を除いて逮捕令状なしに逮捕することもできない。逮捕しても取り調べのために拘留できる日数も限られているし、通常72時間以上は裁判所の許可が必要だ。

そのような手続きが定められているのは、それが民主主義の根幹でだからだ。個人の権利が守られない社会には自由も平等もありえない。それが人類がたくさんの犠牲を払いながら長い時間をかけて学んできたことだし、それが経済の発展をもたらす基礎になっていることも19世紀から20世紀にかけて学んできたことである。

そして権力というものは、いつも自分たちの裁量範囲を広げようとする性質をもっている。9.11以降のアメリカは、アメリカの安全保障の名の下に個人の自由や権利を侵害した。いまだにキューバにある米軍基地には何の権利も保証されていない敵性戦闘員と呼ばれる人びとが数多く拘留されている。その一部は先日ようやく起訴されたがまだ他の人間が権利を奪われたままだ。

だから、市民の代表で構成される議会が、権力すなわち法の執行者をきちんと見張るという構造で民主主義政治を確保しているのである。その法の執行者である大臣、しかも人権について最も敏感でなければならない大臣が、大きな「冤罪事件」を引き起こした検察に注意を促すどころか、それは「冤罪と呼ばない」と発言するのは、民主主義の根幹への理解を欠いているばかりか、むしろ民主主義への挑戦と言ってもいい。このような法務大臣を任命している福田総理の見識さえも疑われかねない。

鳩山大臣の発言は、失言というより暴言、妄言と言ったほうがいいぐらいだが、もう一つ政府幹部の暴言があった。経済産業省の北畑隆生事務次官が1月25日の講演で、インターネットで短期的に株売買を繰り返すデイトレーダーを「競輪場や競馬場に行っていた人が、パソコンを使って証券市場に来た。最も堕落した株主だ」とし「馬鹿で浮気で無責任なので議決権を与える必要はない」と述べたのである(なおこの講演録は経済産業省のホームページで公開されているが、問題部分はきれいに編集されているので、実際にどういう言葉でしゃべったかはわからない。ここでは、数多くの報道記事からだいたい共通するところを選んで引用しているが、細かい言葉はともかく大筋では間違いないと思う)。

競輪の監督官庁でもある経済産業省の事務次官とも思えぬ発言だが、いちばんの問題は、北畑次官も資本市場というものをまったく理解していないということだ。資本市場が広がりをもつということは、社会に蓄積されているお金が産業で有効に利用されるということである。貯蓄も同じだが、この場合は、融資になって企業にお金が回るわけで広い意味での「リスクマネー」ではない。

資本市場の意義はリスクマネーを供給するところにある。そしてその市場で株式が売買されるということこそ、資本市場の柔軟性を保証するものに他ならない。たとえば企業にお金を投資した場合、そのお金が必要になっても引き揚げることがむずかしいかもしれない。しかし市場があれば株券を譲渡して、自分は現金を手にできる。その仕組みがあるからこそ、人は企業にお金を投じることができる。

それが資本市場の原則であり、市場の参加者をいかに増やすかが資本市場の大きな課題だ。そして市場の参加者を増やすことが、市場を一部の人間が支配することを難しくする。すなわち市場の民主化なのである。政治的な民主主義の根幹である経済的な民主主義を支える仕組みがここにある。もちろん今のシステムが万全ではないし、最良でもない。ただ「馬鹿で浮気」なデイトレーダーが根本的な問題ではなく、日本の株式市場はなぜ市場の活性化ができないのか、というほうがより重大で根本的な問題だと思う。聞くところによれば、北畑次官は古き良き産業政策の信奉者だとか。国家による経済統制は長期的には必ず失敗するということは、20世紀に実証されたと思っていたが、日本にはまだ「化石」のような官僚が経済官庁のトップに座っている。残念というか恐ろしいことだと思う。

(Copyrights 2008 Masayoshi Fujita 無断転訳載を禁じます)

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コメント

冒頭のごく一部の内容を除いて(鳩山家はFMです)、卓越したご見識だと敬意を覚えながら拝読させて頂きました。
厳しくも勇気を以って正論を主張される方でいらっしゃいますね。
今の日本には是非とも必要なご意見だと思います。

経済至上主義的発想に関しては、経済の低迷が続く中、大いに甘いのかもしれませんが、持続可能な社会や国民全体が貧しくとも幸せに暮らせる社会の実現を図った上で、経済活動にも励む、という風に転換すべき時期に差し掛かっているのではないかという気がします。
国全体としては、その方がうまく行くでしょうし、人類は自然界の上に文明を築いているのですから。

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