国民主権の意味を問う

国民投票法案が5月14日に参議院を通過し、成立した。これで安倍晋三首相の祖父に あたる岸信介元首相の「悲願」でもあった憲法改正、というよりも「自主憲法制定」 への道が開かれたことになる。もっとも開かれたのは「安倍改憲」への道だけではな い。国会での議席次第では、別の立場からの改憲もありうるというごく当たり前の可 能性も忘れてはなるまい。

わざわざそんなことを言うのは、国民投票法そのものを決めることに反対する議論が あったからである。幸い多数派にはならなかったが、憲法は国民の上に存在する「絶 対的な法」ではない。あくまでも主権は国民にあるという民主主義の大原則からすれ ば、憲法を変えることはまかりならんという議論はおかしいというより「思考停止」 そのものだ。憲法は時代の変遷によって変えるものであることからすれば、手続法を 定めることに何の異論があろうはずもない。

国民が国の在り方を「直接」選ぶ。その結果が改憲になろうが護憲になろうが、これ は日本の歴史において画期的だと思う。われわれは日本の在り方に関する議論や決定 に「直接」参加したことはこれまでに一度もない。近代日本の始まりとなった明治維 新も、革命ではなくクーデターだった。天皇をいただいた薩長が徳川幕府に取って代 わったということである。革命になりうる要素はあったのかもしれないが、残念なが ら「市民」とか「労働者」という西欧的な意味での革命の主体は当時の日本には育っ ていなかった。

もちろんわれわれは間接的に代議員を選んでいるのだから、主権者としての権利を行 使しているのだが、残念ながら「主権者としての意識」は薄いように思える。国民投 票法案をあるサイトで議論していたとき、こんな意見があった。「国民が投票した結 果に基づいて専門家が決定すべき」というのである。こう発言した人の考えているこ とは明白である。「国民投票で多数だからといってその結論が正しいとは限らない」 ということだ。

これはむずかしい問題だ。多数決が正しいとは限らないというのは正しいからである。 古くギリシャで哲学者ソクラテスが不当な裁判にかけられて刑死した。弟子のプラト ンはこの事実を受けて、民主主義が衆愚政治に堕落する可能性があることを指摘して いる。仮定の話だが、戦前の日本で「米英を相手に戦うべきか」という国民投票をやっ たら、結果はどうだっただろう。おそらく70%以上の人々が「戦うべし」と答えたの ではないだろうか。日清、日露、第一次世界大戦と戦えば勝っていた当時の日本では、 戦争を忌避する人々はそれほど多くはなかっただろうと想像される。ドイツでも、国 民の支持がなければ、ヒトラー政権は生まれなかったのである。

必ず正しい結果を導けるような意思決定のプロセスが存在するわけではあるまい。第 一、何が正しいのかわからないこともしばしばある。まして憲法ともなれば、そこに 描かれるのは国の基本理念や在り方。それが将来的にどう影響するか、はっきり言っ てしまえば誰にもわからない。そうであるならば、多数決にしておけば「それほど」 は間違わないだろう。たとえ間違った場合でも多くの国民がそれを選んだのだから、 要するに自分自身の責任ということになる。それが民主主義の大前提だ。

だから国民投票法はわれわれ日本人にとって画期的なのだと思う。われわれが選び、 その憲法に責任を持つということだからである。変える条文だけを国民に問うのでは なく、いっそ今は変えないとされている条文も国民に問うてはどうだろう。たとえば 天皇制について、「国民の総意に基づいて」とあるのだから、その総意を表してみる のもいいのではないだろうか。「改憲」ではなく「新憲法」というのであれば、そこ も争点になるかもしれない。時代と共に変わる憲法という考え方そのものは正しいと 思う。だとすればその他のことも、たとえば日本の伝統も時代と共に変わってもおか しくはない。まさか「美しい日本」の伝統は変えてはいけないのだなどと主張したり はしないでしょうね、安倍首相。

(Copyrights 2007 Masayoshi Fujita 無断転訳載を禁じます)

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