人工呼吸器を外すのは殺人?
先日、テレビを見ていたら、富山県射水市の外科医師が末期ガンの患者の人口呼吸器を外した「事件」について、特集をしていた。どういう方向で議論するのか枠組みさえはっきりしなかった番組だったが、「厳密に言えば、日本の医師のほとんどが殺人罪に問われる可能性がある」というどこかの大学の先生のコメントには驚いた。まるで日本では、人工呼吸器を外してまわる医師や、筋弛緩剤など死に至らしめる薬剤を注射してまわる医師が徘徊し、患者がどんどん殺されているような言いぐさである。
「安楽死」が殺人にあたるかどうか、という議論はまだ続いていると思う。日本にはいわゆる尊厳死(人間らしく死ぬこと)を認める法律がないから、患者本人の意思がどうあれ、医者が何らかの方法で患者の命を縮めれば殺人罪に問われることがありうる。しかし、射水の件は「安楽死」ではない。これは「延命措置の中止」(射水の病院の院長が「延命措置の差し控え」と言っていたが、「中止」というのが正しい。差し控えとは、たとえば人工呼吸器をつけないということだ)である。
そこで問題は、延命措置が医学的に無益であると医師が判断したときに、人工呼吸器などを外す決定を誰ができるのか、(事前に確認されていれば)本人の同意あるいは家族の同意は絶対に必要なのか、医療側と患者家族が合意できない場合はどうするのか、ということに絞られてくる。
僕の両親は、2年あまりの入院の末、病院で亡くなった。二人ともいわゆる延命拒否の意思を明らかにしていた(父は痴呆が入っていたので、父については母の代弁である)。だから入院時に必ず聞かれる「もしもの場合、延命措置をしますか」という質問には「いいえ」と答えた。結果的に、母はまったくチューブにつながれることはなく、父は胃に直接栄養食を入れるようにしただけで(普通に食事を摂ることができなかったから)、長期入院の末、死を迎えた。
この問題は、アメリカでも1990年前後に大きな話題になった。マサチューセッツの名門病院、マサチューセッツ・ジェネラル・ホスピタルが、ある患者の延命措置の中止をし、患者の家族がそれに納得しなかったために裁判となったからである(過失による損害賠償を求めた民事訴訟)。この裁判は95年に「病院側に過失はない」とする陪審員の評決が出た。この件で病院や医師が刑事告発されたということは聞いていないから、裁判としては民事裁判だけだったのだろう。ただ過失なしとの評決で、病院が「無罪放免」されたわけではない。患者家族とのコミュニケーションや延命装置を外すにいたるプロセスで、病院側の進め方に問題があると批判された。この事件をきっかけに、医学的にみて無益な延命装置を外すまでのプロセスをどうするかということがいろいろ議論されたという(この辺りの事情ついては、ボストン在住の医師、作家である李啓充氏の著作や記事が参考になる)。
射水市の病院の事件も、まさにこの「医学的に無益」な延命措置を中止するという問題であった。患者の家族にとって、この「無益」ということが受け入れがたいかどうかが一つの問題である。しかし多くの場合、患者の様子を見て、医師から「回復の見込みはない」と告げられれば、納得する家族のほうが圧倒的に多いのだと思う。アメリカのある調査でも、医師の判断に納得しなかったケースは4%だという(4%を多いと感じるか、少ないと感じるかは判断が分かれるところだろうが)。
そうすると射水のケースは、家族の同意があったかどうかが一つの大きなポイントだ。そして問題となった外科医が直接関わったとされる6件のほとんどが、家族から口頭で同意を得たようである。口頭であるために証拠が残っておらず、その外科医も「ややルールを外れてしまった」とインタビューに答えていたが、患者と医者との信頼関係で仕事をしていれば、死期を迎えている患者の前で書類にサインしろとはなかなか言いにくいと思う(僕の両親のケースのように事前に確認しておくことができれば別だが、救急で運び込まれたりすれば、延命拒否かどうか確認できないことも多いはずだ。そうするといったん延命装置をつけて、後から外すということになる)。
延命措置中止の最終決定はやはり家族がすべきものであるという点については、あまり異論はないように思われる。だから医学的に無益であると判断した医師は、家族の説得に全力をかけるしかない。それでも家族が納得しないときにどうするか。これについては医師、患者、哲学者などを入れた検討委員会で、きちんとしたプロセスを考えるべきだと思う。医師として当然のことをした場合でも「殺人罪」に問われたりするということになれば、医師のモチベーションは著しく低下する。日頃、生命を救うことにかけている医師たちにとって、殺人に問われることはあまりにも屈辱的だ。それを避けるために、医師が医療の現場から立ち去ったりするようなことがあれば、その不利益を被るのは国民である。日本の医療を少しでもよくするために、われわれは感情的で扇情的な議論はつつしまなくてはならない。
(Copyrights 2006 Masayoshi Fujita 無断転訳載を禁じます)
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- トラックバック時刻: 2006/04/10 22:21:33
- From: いなか小児科医
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