嗚呼、オリンピック
トリノ・オリンピックで日本選手の不振が目立つ。もっとも、「不振」というのは日頃の力を出せないことなのだが、今回の「不振」はちょっと違うような気がする。もともとマスコミを中心にして、選手の実力以上に期待をふくらませすぎたのではないかと思う。
そして最近のオリンピック中継を見ていると、昔より一段と日本の選手の報道が増えている。まあそれはそれで納得できるところもあるが、一方でいい成績を残した外国選手のプレーも見たいと思う。どんな競技でも、それを見ないと日本選手の実力もよくわからない。ワールドカップの成績をつぶさに追っているわけではないからだ。
そしてもう一つ。よく耳にするのが「日本選手に不利なルール改正があった」という言葉だ。かつての複合で萩原が圧倒的に強かったためジャンプの比重が下げられ、距離のほうに配分が振られた。ジャンプではスキーの長さが規制された(原田の失格はこれとは関係ない)。これは政治の世界でも言われ始めた「日本の発信力」と関係がありそうだ。要するにルールを決める場で日本を代表している役員の人たちが影響力を行使できていないのではないかということである。
外交でも、昔よりもましかもしれないが、日本の発言力は経済力とは全然見合わない。だから「日本という国は日本人には任せておけないほど重要だ」などと皮肉られる。この問題をどうしたらいいか。外国に留学し、コミュニケーション力をつけること、そして日本でも合理的思考法を徹底的に教育することが必要なのだろうと思う。
この「合理的思考」はわれわれの不得意とするところだ(小泉さんの靖国発言などもあまり合理的とは言い難い)。最近でも、米産牛肉をめぐる中川農水大臣の発言、武部自民党幹事長の息子をめぐる民主党の「堀江メール」発言など、論理的に納得できない発言がある。これを見ていては、論理的思考が必要だなどとあんまり実感できないかもしれない。なぜなら、子供たちに必要なのは「反面教師」ではなく「よい例」であるからだ。
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