続・報道、記者そして責任

今週も引き続き、メディアの話である。最近『ドキュメンタリーは嘘をつく』とい う本を読んだ。森達也さんという映画監督が書いた本である(草思社刊)。森さんの 言わんとしていることを誤解を恐れずにかいつまんでみる。「映像は作り手の主観か ら逃れることができず、無自覚的に映像は事実であるとするのは大変な無知である。 そして主観であるということを知っている作家から優れた作品が生まれてくる」とい うようなことだったろうか。

その主張は正しいと思う。僕が育ってきた文字の世界では、もともと「文字は事実」 という感覚はない。一度、書き手の頭の中を通過している以上、そこから生まれてく る文章が事実だと考える人はほとんどいない(もっともたまには「事実を」書いてい ると思いこんでいる人もいた)。読者の側も、報道的な文章でも作家や記者による事 実の「解釈」であると考えているだろうと思う。

映像の場合は状況はもっと複雑だ。なにせ視聴者が見るのは、多少の演出があるとし ても、実際の映像であるからだ。特殊撮影とかCGでなければ、映像は事実であると 視聴者の側が思いこむのである。とりわけ報道やドキュメンタリーという現実にある ものを撮影することを前提とした番組では、その思いこみが一段と強くなる。

しかし実は、映像はそこにあった「事実の一部」にすぎない。昔、テレビスタジオを こんな場面を見た。スタジオというのは意外にゴミゴミしているところなのだが、ベ ニヤ板に壁紙(それもたかだか50センチ四方ぐらいのもの)を貼って、その上に写真 が一枚貼ってある。それをカメラでアップで写すとテレビには立派な壁に貼ってある 写真に見えるのである。つまり視聴者はカメラの外にあるものを勝手に想像してしま うのだ。僕がその時に思ったのは、カメラの枠の外にあるものがいっぱいある、とい うより、カメラに写っているのはごくわずかであるということだった。

だから映像は信用できないと言うつもりはない。ただわれわれが映像を見るとき、そ こに写っていないものがあるということを忘れてはならないのだと思う。何を撮影し、 何を撮影しないかは、そのときの取材者の意図に完全に左右されてしまう。どんなに 良心的な人間であっても、伝えるという作業の中には必ずその人間の主観が入り込む。 必ず撮影対象を選ばなければいけないからだ。そして森さんが指摘するように、この 主観から逃れる術はない。

およそ事実をすべて伝えることは不可能である。文字であろうが映像であろうが、事 実の一部を切り取って伝えるしかないのだから、しょせんそれは事実そのものではな い。マスコミは客観報道という言葉を好んで使う傾向があるが、それも実際には「な いものねだり」にすぎない。それをどう考えるかがマスコミの在り方を左右する。客 観報道という言葉に限界があると思えば、たとえば署名入りの記事を掲載してその記 者の「解釈」であるという面を強調するかもしれない。逆にあくまでも客観にこだわ れば、何が客観かという基準が欲しくなる。そこで「多数派が客観」という落とし穴 にはまってしまう危険性が高くなるのである。

そして日本のマスコミの場合、この後者のケースがあまりにも多いと思う。大新聞や 大テレビの報道が似たり寄ったりになるのは「多数派が客観」、言い換えれば「赤信 号、みんなで渡れば怖くない」の心理だ。この体質がいかに危険かは、戦前から戦争 にいたる過程のマスコミの報道を見ればよくわかるではないか。無論、戦争というの は国家が異常にハイになっている状態だから、冷静な議論など吹っ飛びがちだ。しか も戦前の日本の言論統制ぶりは現代からは想像しにくいだろうから、一概にマスコミ がだらしないというのは間違いだろうと思う。それでも、どの新聞も戦争に向けて昂 揚していく様子はあまり気持ちのいいものではない。そして戦後になってすべての責 任を当時の指導者に押しつける様は、もっと気持ちが悪い。

何という映画だったか、ナチスドイツで迫害されるユダヤ人の教師が追い立てられる とき、ドイツ人の子供が首を掻ききる動作をした場面を覚えている。子供にそういっ た感情を植え付ける状況をつくったのは指導者かもしれないが、社会をそのように動 かしたのは市民なのだ。その市民に大きな影響を与えたのはマスコミである。

右であれ左であれ、保守であれリベラルであれ、すべてのマスコミが一方に傾くのは 好ましくない。マスコミの役割は客観的であることではなく、多様であること。そこ からどう判断するかは視聴者や読者に任せればいいと思う。

この記事は私の週刊メルマガ"Observer"に掲載したものです。

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コメント

blogなかなか見やすくていいですね。
週刊メルマガより読む気になります。

映像で思うのですが、静止画像の写真も全く同じですね。写真家の主観に基づいて視野に入る映像のある断面を切り取るわけですから。要は、人間(それも各自の)心象の表象に過ぎない。
それでは、こうした芸術と報道はどう違うのか。文章で言えば代表的な小説と新聞報道ではどう違うのか。
写真に置き換えればちょっと乱暴ですが、スタジオでセットを作って写真家の思うように写し取るのが小説。自然風景を切り取るのが報道。

要は報道も記者の主観から逃れられないということです。この意味で客観報道はあり得ないわけです。主観報道だけれどその主観に幅があってしかるべきということが藤田さんの主張でしょう。

問題はここからです。人間は、学習過程(組織の中の暗黙の慣れも含みます)を通じて標準化されていきます。極端な話が教育も一種の標準化の過程です。ある種の社会としての標準がないと社会が円滑に回らない。為政者はそこを逆にうまく利用するのです。ヒトラーがそうでした。戦前の日本もそうかも知れません。

もう一つの問題は報道の商業主義です。大衆の喜びそうな多数の感覚に沿った記事でないと記事にされない。これも記事の多様性を阻んでいます。

個人の主観に基づく多様な意見を素直に出せるインターネット時代の新しいコミュニケーション手段は上記の状況を少しでも変える潜在力があります。

2チャンネルが横行していますが、質の高いコミュニケーションチャネルも生まれることを期待します。これも多様性の一つです。

New Englandさんの「標準化」という指摘はおもしろいですね。ただ学習は単なる標準化ではなく、むしろ多様化を生み出す源でもあります。社会としても標準化された知識体系だけでは創造力が不足してしまうでしょう。社会(あるいは為政者)が標準化を目標に教育しても、そこからその社会を破壊し新しい社会を模索する動きがでてくるわけです。つまり教育が現在の社会を変革し、次の社会を生み出す原動力になっていくのだと思います。

報道の商業主義についての主張はわからくはないけれども、実際にはどうでしょうか。私は、大衆迎合的な記事や番組は、要するに編集者やディレクターの不勉強がなせるわざだと思っています。大衆は実はメディアよりは賢いのです。

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